このブログについて

国立大学法人山形大学工学部教授の吉田司のブログです。2050年までのカーボンニュートラル社会実現に向けて、色々な情報や個人的思いを発信します。発言に責任を持つためにも、立場と名前は公開しますが、山形大学の意見を代弁するものではありません。一市民、一日本国民、一地球人として自由な発言をするためにも、所在は完全に学外です。山形大学はこのブログの内容について一切その責任を負いません。

2022年11月18日金曜日

想像力と気づき

 またすっかり間が空いてしまいました。この間何もしていなかったわけではなくて、大忙しでした。近く、良いニュースもお知らせ出来ると思っていますが、ここ最近も、全く良いことが無いですね、という状況。ウクライナの戦争は全く終わりが見えず(ポーランドへのミサイルの件は本当にドキッとしました)、北朝鮮はバンバンミサイルを撃ち(予想通り)、COP27では全く進展が無く(予想通り)、南部ヨーロッパや北部アフリカの大干ばつ、水不足、食料不足、気候難民。苦し紛れの石炭回帰。身から出た錆、先進諸国は物価高騰には我慢我慢。

そんな中でも、せっせと研究計画を立てたり、あちこちで講演活動をしたり、ヨーロッパ(ポーランド、ドイツ)にも行き(久々の国際会議などなど)、新しいネットワークも構築し、最近はちょっと自分のキャパシティーオーバーに陥っていました。自分が下手くそ過ぎるのか、つくづく日本人を理解出来ていないからなのか、自らの想いと周囲の意識とのズレを痛感しています。それに腹を立てているというよりは、無力感というか、自分自身が迷惑な存在にさえ思えてきて、何もかも放り出したくなることもしばしばです。余計なお世話?かなり、末期的。

私という人は、きっと周囲からは自信満々で主張が強く、暴力的でさえあると思われているのではないかと感じますが(そう片付けるのが簡単だから、そうやって非難する人が少なくない)、どっこいとてもセンシティブです。最近は色んな事が頭から離れず、グルグルと考え続けて眠れなくなることが多いです。強い酒の力を借りて、強制的にぶっ倒れる様に眠りにつく。本当に末期的。自分は弱いし、自信なんてない。ただ、それでも自分を信頼しています。そして変化は起こると信じています。細やかさや器用さは、相変わらず無いかな。自分よりももっと弱い人を分かってあげるキャパシティーが足らない?一方でバイタリティーと粗暴であることを混同している様な人もいますよね。自分はそうじゃないから、ついに心がもたなくなっている。でも、どうあっても、放っておけないんだな。そういう性格なんです。傍迷惑かも知れないけど、自分の正義感が、ノーサンキューかも知れないけど、自分の人類愛が、常に自分に「行動を起こせ」「くじけるな」と語り続けます。自己分析なんて出来ないから、もういいです。自分がよっぽど丈夫なら、まだまだ行けるでしょう。あるいは、このまま弱って老いぼれていく。でも心は変わらないです、昔も、今も、これからも。

さて表題の「想像力」と「気づき」。これは最近口癖の様に言い続けていることです。学びは常に大切ですが、経験や学ぶ機会を通じて自分自身に変化を起こせるかどうかには、想像力と気づきが大切だと思うのです。今の行動、努力というのは未来のためですが、未来は見えません。だから経験したり、(自分にとって)新しく知ったことは、全て過去のことです。それで、次の一歩をどう踏み出すべきなのかを考える時、その拠り所となるのは「想像」です。ただ、それは根拠の無いファンタジーではありません。時にファンタジーも(特に芸術的創造活動では)大切だと思いますが、この想像は、過去の経験や学びから得た知識から論理的に導かれる未来を予想する力です。例えば気候変動がどうして起こったのかを正視し、科学的根拠を持って未来を想像すれば、この先どれ程酷いことになってしまうだろうかと想像することは出来るはずです。一方の気づきは、社会や他者に対する場合もありますが、自分自身に見えていなかった自分にも気づくことです。人は過去を簡単に葬り去ります。というか、自分にとって都合の良いことだけを記憶します。気づきの無さは、想像力を弱くもします。どうして世界はこうなのか、どうして自分はこうなのか、そして未来を想像し、何を成すべきなのかを導けば、それが自分自身を変えようとする力になります。その生き方は、かなりしんどいので、本当に気づいていないのか、気づいてもやりたくないのか、とにかく変わらない。変わりたくない。(やっぱり、文句言ってますよね、だから嫌な奴だと思われる)

例えば、この前お風呂に入っていて思ったのです。自分は毎日風呂に入れることを当たり前の様に生きていることに気付きました。高温多湿な気候の日本に住む日本人の多くには入浴の習慣があります。気候の影響もあるでしょうけど、経済的な事情もあって、風呂なんて1週間に1度入ればいい、あるいは行水だけでお湯なんて使わない、という生活をしている人って、きっと世界には沢山いるんでしょうね(そっちの方が多い?)。言うまでもなく、お湯を作るのには沢山のエネルギーが必要になります。いつも清潔で、石鹸の良い匂いがしている国民って、それだけでも凄く贅沢。映画MAD MAXで、石鹸に驚嘆するシーンが出てくる。何も無い世界だったら、そうなりますよ。でもお風呂に入るのは当たり前過ぎて、それがどれ程エネルギーを大量に消費する生き方なのかを想像したり、自分はそういう贅沢をしている一員であるということに気付いたりすることは容易ではないと思いました。あ、だからってこれからは風呂は一週間に1度にしようとか思っているわけではないですし、臭くなるわけでも無いですよ(加齢臭は別)。清潔で健康的な生活のためのテクノロジー、文化としてのお風呂を生み出したことに誤りがあるわけではないです。もちろん、今より電気が10倍高くなったりしたら、きっとお風呂を使わなくなり、臭くなります。

過日、洋上風力発電に対して「私たちは未来の世代のためにこの景観を守ろうと!」とスゴイ剣幕で反対されるご高齢の方々に「いや、それなら子供たちには電気は要らないんですか?原発作る方が良いんですか?」と言うと、さらにヒートアップして「そんな極論を!」と来たのですが、いやいや、全然極論ではないです。自分たちは、電気を散々使う生活を当たり前に享受してきたのですけど、そのことに対する感謝も無ければ、罪悪感も無いのです。もちろんやめるつもりも無い。学びが無いし、想像力も無いし、気づいてもいない。どうしてこうなったのか、都合の良い記憶ではなくて、それを正視出来たなら、そして子供たちの未来がどうなるのかに想像力を働かせられたら、「私たちは変わりたくないんですよ!」と主張することは出来なくなるはずです。しかし、どんな語り掛けをしても、これは無理だ、と率直に感じました。世代間のギャップの大きさに驚きました。心配だったので、私の学生や高校生に聞いたら、ほぼ全員「再エネ増やして欲しい」「原発はまっぴら御免」です。学んでるし、想像出来てるし、気づいてもいる。

「老いては子に従え」とはよく言ったものです。私ももうすぐお払い箱になります。だから、次を担う世代には、良く学び、想像力に磨きをかけ、人とは何か、自分はどうか、と問いかけ、根源にある問題に気づいて欲しいのです。無力感なんて言わないで。自分たちは変われる、自分たちは変えられると信じて欲しい。努力し、信頼できる自分に成長していって欲しい。それだけが希望です。あなたたちにしか出来ないんです。全力で応援しますよ。

125

 「125」この数字が意味するのは何でしょう?はい、私はオートバイが大好きで、特に手に余らず、使い切れるパワーで軽量な125ccクラスのバイクが好きです。高速道路は乗れないけど、バイクで高速道路走っても、ちっとも面白くないし、二人乗りだって出来るし、燃費良くて維持費安いし。今ウチ...