このブログについて

国立大学法人山形大学工学部教授の吉田司のブログです。2050年までのカーボンニュートラル社会実現に向けて、色々な情報や個人的思いを発信します。発言に責任を持つためにも、立場と名前は公開しますが、山形大学の意見を代弁するものではありません。一市民、一日本国民、一地球人として自由な発言をするためにも、所在は完全に学外です。山形大学はこのブログの内容について一切その責任を負いません。

2022年2月10日木曜日

ジュリア・ギラード氏旭日大綬章

 いやあ、今年に入ってまだ更新が4回目です。すいません、怠けているわけではないのですけど、いわゆる大学の繁忙期でして・・・。こちとら一生懸命に仕事をしているのですけど、メッタ打ちにされる様な状況で、身も心もボロボロです・・・。カーボンニュートラルに向けた活動、今こそと思い、始めたものの、知れば知るほど、考えれば考えるほど、それが遠のいていく様に思えます。世の中の出来事、人の行動パターンの変わらなさを思うと、どの様にしてカーボンニュートラルなどという大事業を成し遂げ得るのか、それにどう貢献し得るのか、全く見えず、暗闇に放り出された心境です。

みんな気づいていないのか?あるいは気づいてはいても、明日を思うと自らを変え、世界中にはびこる不条理と戦うことなどやめて、境遇に身を任せてしまうからなのか、とにかく世界は、というより人は変わろうとしない、と感じます。それに苛立ちを感じて、抵抗すること自体に自分自身も疲れてしまっているのを感じます。気が付けば「そんなことは無駄だからおよしなさい」と言ってしまう側になってしまうのではないか、と恐れさえ感じます。この苦しみは、まだ自分が戦おうとしていることの証なのでしょう。

そんなことはほぼ毎日考えますが、自分の力不足を情けなく、恥ずかしく思い、久々に書こうと思ったのは、2010-2013年にオーストラリアの首相を務めたジュリア・ギラード氏(オーストラリア史上唯一の女性首相)のインタビューを見たからです。

旭日大綬章受章の豪ギラード元首相単独インタビュー(TBS系(JNN)) - Yahoo!ニュース

2011年の東日本大震災の時に、海外の首相として初めて津波による被災地を訪れ、それ以降も日豪の友好に貢献したことが受章の理由だそうです。しかし、そのインタビューでは受章のこと以上に、初の女性首相として感じた難しさ、相変わらない男女の格差、豪ではむしろ男女平等が後退していることなどを語っています。

ギラードさんが首相になった時のことは良く覚えています。何しろ私が大好きなジュディ・フォスターにも似た美人ですから、「へえ、凄いなあ、こんな人が首相になるんだ」と思ったのを覚えています。しかし、すぐそうやって、女性の容姿のことを話題にする愚かな男の私もまた、女性が等しく活躍できる社会を阻む一人なのかも知れません。もちろん、政治のリーダーにとって容姿から来るイメージというのは大切だとは思います。例えばケネディ大統領やハリウッドスターだったレーガン大統領の残したカリスマ性に、その端正なルックスが無関係だったとは思えません(ニクソン大統領が対極?)。最近だと、フランスのマクロン大統領でしょうか(美男子)。なので、美しくて何が悪い、であり、国民のリーダーは外形から来るものだけでなくて、内側からほとばしる美しさがあってしかるべきでしょう。

でも、ギラードさんはおっしゃるわけです。首相になった時、マスコミや社会は着ている服のことや、子供はいるのか?子供は誰が世話しているのか?ママ業と首相は両立できるのか?とか、そんなことばかりを話題にして、肝心の国の政策、リーダーとしての理念などを十分には聞いてもらえなかった、というわけです。女性の社会進出を阻む2つの壁として、構造的な壁と心理的な壁があると言っています。構造的には、やはり次の命を育てる大きな役割を担う女性に不都合を生じる社会の仕組み、まあこれは気づけさえすれば、改善は可能でしょう。しかし、それを見過ごしたり、気付けなかったりする背景には、社会のリーダーは当然男性である、という強いバイアスがあることも明らかです。

それで、ギラードさんは、ジェンダー平等に関する研究科を大学に立ち上げたり、NPO活動を支援したりの活動をされている様です。折しも、オーストラリア議会内で起こった議会職員女性に対する性暴力行為が承認され、捜査中であることも報じられました。

オーストラリア議会が女性に対する性暴力と虐待の訴えを承認 - 2022年2月8日, Sputnik 日本 (sputniknews.com)

日本よりは、よほど男女平等、女性の社会進出が進んでいると思われる西洋社会であっても、実態はまだそんなもの、ということなんでしょうか。

つくづくたちが悪いのは、差別まみれの人種に全くその差別意識が無く、むしろ善意で行っているとさえ思っているところです。性差別に限りません、人種、文化、教育、年齢などなど、差別の理由はいくらでもあります。結局社会的強者がその既得権益を守り、正義と悪を勝手に定義し、善人ヅラして悪事を働く、本人にはその差別意識がゼロ、という困った状況です。そして強者による弱者の支配に常に利用されるのが、金の力です。今日のニュースの一つが、流通超大手、アマゾンが基本給上限を2倍以上引き上げ、年4000万円としたということです。

アマゾン 基本給の上限を2倍以上 年間約4000万円に引き上げへ | IT・ネット | NHKニュース

理由は、優秀な人材を確保するため、ということで、まあ当然と言えば当然でしょう。日本も春闘の時期ですが、過去30年実質的に成長していない日本では絶対無理な話。そうしているうちに、日本からは優秀な人材というのがどんどん失われていく?アマゾンみたいなことが出来なかったとしても、例えばはした金であったとしても、やはりそれをチラつかせて「俺の言うこと聞けよ」と来られたら、ひとまず言うこと聞いておいた方が良い、となるでしょう。だから、弱い者には罪はない。

では金以外に努力や能力を引き出す方法は無いのでしょうか?もしその程度であれば、結局世界は変わらないでしょう。カーボンニュートラルも無理です。強者にとって都合の悪い人は必ず排除の対象にされます。ギラードさんの話を通じて思った、相変わらず多様性を認めない社会は、こうした強者の論理による支配と無関係ではありません。その瞳が輝きを放つ、美しく(すいません、また言いました)聡明なギラードさんの様な人に心から敬意を表します。同時に、何も出来ない自分自身の情けなさを痛感しております。


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