このブログについて

国立大学法人山形大学工学部教授の吉田司のブログです。2050年までのカーボンニュートラル社会実現に向けて、色々な情報や個人的思いを発信します。発言に責任を持つためにも、立場と名前は公開しますが、山形大学の意見を代弁するものではありません。一市民、一日本国民、一地球人として自由な発言をするためにも、所在は完全に学外です。山形大学はこのブログの内容について一切その責任を負いません。

2021年9月11日土曜日

米国同時多発テロから20年

 お盆に2週間ぐらい更新しなかったせいか、最近閲覧が激減しております。残念。カーボンニュートラルは流行りではなくて、これからの人類社会にずっと関わり続ける問題であって、常に真剣にそれに向き合うことが大切です。どうか、一人一人がそれを学び、共に考え、行動することを続けて欲しいと思います。

さて、今日であの凄惨なテロ事件から20年が経ちました。今日Nスぺで特集もあるみたいですが、直近のアフガニスタンの混乱の状況を見ても、世界がより平和になったとはとても言えません。言うまでもなく、平和と秩序が保たれない世界において、世界規模のカーボンニュートラルの実現などあり得ないわけで、戦争の無い平和な世界を保つことはカーボンニュートラル実現とは不可分です。科学技術を学ぶ理系の学生さんたちも、技術やその経済効果のことだけを考えるのではなく、広い視野を持って恒久的な世界の平和に如何にして貢献するのかということを考え、発言し挑戦し続けて欲しいと思います。

軍事的攻撃の対象となった、アルカイダやISなどの主要テロ組織は20年に渡るテロとの戦いで弱体化したものの、その頭を叩いたことで小さな集団に分散し、認定されたテロ組織の数はこの20年に倍以上に増えているようです。テロ攻撃の動機が無くなったわけではなくて、むしろ強者による支配に対する恨みと抵抗は強められているのではないでしょうか?それらの人々は息をひそめて反撃のチャンスをうかがっていることでしょう。国際社会からその存在がより見えづらくなっていると思います。

そして、タリバンによるアフガニスタンの掌握、アメリカ軍の全面撤退が起こりました。これからのアフガニスタンがどうなるのかはまだ分かりませんが、私自身は全く楽観していません。正面から世界の列強に対立すれば、以前の様に痛めつけられることは学んだと思います。それが、民主化をちらつかせる様なタリバン報道官の発言から分かりますが、根本が変わったとは到底思えません。彼らにとっては、人や社会がどうあるべきかは愚かな人間が決めるべきことではなくて、神の導きに従うことが規範なのです。だから全てのことはイスラムの教えに従うことが基準で、民主主義は無責任であり、愚かな人の欲望を増幅させてしまう仕組みなので、決して評価も受け入れもしないでしょう。過激なテロ組織だけでなく、タリバンもそのイスラムの教えを極端に解釈する組織なので、女性の人権などは全く無視されると思います。それを社会全体が受け入れて、地域の秩序と平和、幸せな暮らしが守られるならば良いのかも知れませんが、人の根源的欲求であり権利でもある自由をはく奪されることへの恐怖と嘆きの声が既に聞こえてきています。結局そういう社会ルールを強要しているのは、そのイスラム社会の中における強者たちであり、弱い者はただ従わされることになります。だから、それを放っておいて良いとは思えないのですけど、だからと言って軍事攻撃し、制圧しても新しい秩序は全く生まれてこなかったということです。

一方で、国際社会のリーダー格を自認する自由と民主を重んじ、資本主義的経済発展を遂げた国々は脱炭素との戦いにも直面しています。そして、その戦いに勝つ術を模索しつつも、それが見えてこない状況に陥っているのではないでしょうか。経済発展と脱炭素は本当に両立するのか?世に言う「グリーンニューディール」は列強による搾取の対象が変わるだけではないのか?など、脱炭素への挑戦は、社会全体の在り方を見直すことさえ要求していると思えます。思えば、第二次世界大戦開戦前の世界において、スターリン率いるソビエト連邦は、共産主義、社会主義こそ人々の繁栄と幸福を実現する理想的な国家であると、不況にあえぐ西側の自由資本主義国家から羨望された時期がありました。しかし、実際には体勢に逆らう人は全て粛清される恐怖政治が支配する国家でもありました。朝鮮戦争の後の北朝鮮もしかり、ベトナム戦争の大混乱の中でカンボジアを支配したポルポト派が行った自国民に対する残虐行為など、やはり弱者が強者によって支配される本質は変えようがないと思えます。であるならば、やはり見かけ上はとても美しい共産主義は成功し持続することもあり得ないし、あってはならないと思えます。しかし、直近の中国はどうでしょうか?自由は無いかも知れないけど、あの巨大国家が繁栄と成長を続けている様に見えます。全体主義的なシステムでなければ、脱炭素との戦いには勝てないかも知れません。実は、脱炭素実現への社会システムの模範であるかも知れないのです。

色々な事、過去の過ちや悲劇を知り、今日の世界を見て未来を展望し、自分なりに一生懸命考えるのですが、何が本当に人々の幸せのために良いことなのかについての結論など到底得られていません。それはずっと無理なのかも知れませんね。だけど、そういう思いを持って自分が出来ること、残せることのために自分に与えられた時間の中で努力することは大切だと思っています。

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125

 「125」この数字が意味するのは何でしょう?はい、私はオートバイが大好きで、特に手に余らず、使い切れるパワーで軽量な125ccクラスのバイクが好きです。高速道路は乗れないけど、バイクで高速道路走っても、ちっとも面白くないし、二人乗りだって出来るし、燃費良くて維持費安いし。今ウチ...