このところ、ずっと経済学の話が続いてきたように思います。経済学のみならず、国際的な情勢を分かっていること、歴史認識、理系の人たちにも大切だと思います。テクノロジーは、特に今の世の中においては人の強欲さを満たす手段として用いられ、ぼーっとしていると全く社会的意義の無いこと、もっと悪い場合は害を及ぼすことにさえ手を貸してしまうことになりかねません。理系の人の多くは素直過ぎて、社会を支配する層が示す基準に盲目的に従い、議論を戦わせることもなく(研究のこと以外議論が下手)、そういうふうだから社会の動向にも無知(無関心)でナイーブなところがあります。学者でさえも世界がどうあって欲しいと思うのか、成すべきこと、すべきでないことに対する基準が自分自身の中に明確では無いから、いきおい論文の数、インパクトファクター、外部資金とか、自分自身の価値の定量評価に使われる数字が気になり(理系は数字には敏感!)、学問の社会的意義を見失って翻弄され続け、挙句の果てはバーンアウトしてしまうか、あるいは世捨て人の様に自分の研究の世界の中に逃げ込んで、その社会的意義など考えなくなるように思います。どっちも良くないですね。
ということで、経済学というか、世の中の仕組み、人が辿ってきた歴史についても貪欲に学び、人の内面にも向き合ってこれから起こるであろうことを想像し、今の時代感覚を持って成すべきことに気付き、行動することも理系学者が学者らしくあるために必要だと思うのです。何もそれは学者に限ったことではなくて、テクノロジーに関わる全ての人について言えることです。単に利用される存在とならず、自分の行動に自らその意義を与えられることは大切です。学者になってからのこの30年あまり、科学の進歩に伴って業界は細分化され、専門性が問われる傾向が強かったと思います。専門領域で秀でることが個々の存在意義として求められてきました。しかしそういう細分化が進んだことで、互いの関係が見えなくなり、果ては自分自身の学問が世界とどう繋がっているのかさえよく分からなくなってしまい、分野を越えた協力というのを難しくしていました(YUCaNでの苦労でそれを痛感しています)。今再び、レオナルド・ダ・ヴィンチ的な博識の人が求められている様に感じます。失われた世界の絆を取戻すには、知識や理論だけでもない、実践と経験だけでもない、両方を兼ね備えつつ本当の意味で世界を俯瞰し、自分の周囲の都合や常識に流されない存在が必要です。それを目指してんだけど、自分の能力的になかなかそんなこと出来ません…。
テレビっ子(死語)の私は、活字を読むのが苦手で、スピード感も無いのでテレビとかメディアの情報を大量に仕入れます。ただ、いつも批判的にそれらを見ているので鵜呑みにはせず、そこから考え始めます。ここ最近の記事に一番影響を与えたのは、今年の正月に放送されたNHK BS1スペシャルのこの番組です。
欲望の資本主義2023 逆転のトライアングルに賭ける時 - BS1スペシャル - NHK
繰り返し見てしまうほど、中身が濃かったです。先日話題にした「労働力のステルス値上げ」もこの番組の中で渡辺努先生が言っていたことでした。色んな人が話をしていますが、多くがフランスの経済学者。やっぱり私、フランス好きだなあ。大勢の考えとか空気に引きずられている様なところが全く無くて、日本人と対極的です。とても説得力があり、うならされるのですけど、これらの経済学者が語るテクノロジーや産業は、やっぱり机上の話になっていると感じるところもあります。それは、実際にそれらに関わった経験が無いからでしょうね。例えば太陽電池やリチウムイオン電池を作るための産業技術がどれぐらいダーティーであるのかについてのインプットがされていない感じがします。まあ、良い番組だと思いました。再放送もまたあると思いますし、NHKオンデマンドでも見れますから是非ご覧になると色々考えさせられると思います。
さて、この番組でもしきりと「イノベーション」という言葉が登場していました。イノベーションとは何か、まずその定義から確認しましょう。
イノベーションは新しい技術の発明、Invention(インベンション)ではないんです。用いられる技術というのは陳腐で古臭いものであっても構わない。新しい切り口、とか言われていますけど、要は社会的意義が重要であって技術をどの様に用いてより良い社会づくりに貢献するのかという意志が無いとイノベーションは起こらないわけです。極論すれば、イノベーションにサイエンスは不要かも知れません。自分の学術的関心やそれを溺愛してしまうことはイノベーションの妨げですらあるでしょう(古いタイプの理系にありがち)。
果たして、政治家も、役人も、企業経営者も、もっとイノベーションを!と叫ぶわけですけど、実態はどうか。上記の経済学者の多くも指摘していますが、イノベーションを最初に定義したシュンペーター的なイノベーションが、社会の発展や豊かさ、幸福度を向上させてきた時期があったとしながらも、最近は社会的意義のためではなく、単にライバルに打ち勝ち、淘汰するための手段として、本来必要でもないものを必要と思わせる新しいネタ探し、アイデア出しの様になってしまっている、そうした悪いイノベーションが良いイノベーションを殺している、というのです。それ、分かります。深圳のB級ベンチャーなんて完全にそうですし、日本も怪しいものです。それをイノベーションと言いつつ、一体どういう理念があり、どの様に良い社会形成に貢献するのか、という社会的意義のためではなくて、如何に商業的に成功するか、競争に打ち勝ち、利益を上げるかという経済的意義だけが新しいモノやサービスを生み出す動機になっているところがあります。もっと酷いのは、圧勝する巨大企業が誕生したことで、イノベーションを阻止する動きまであるということです。例えばアマゾンやマイクロソフトなどは、元々はイノベーションを起こして社会変革を起こした、アメリカの発展の原動力でした。ところが、企業買収、いわゆるM&Aを通じたライバル潰し、邪魔な存在だとしても重要なオルタナティブであったはずの同業他社潰しが進行し、進化の原理である代謝のメカニズムが破壊されてしまいました。さらには、そうした民間会社が病院、学校、交通など、公共性の高い事業にまで手を出し、そうした公共サービスの健全性さえ危ぶまれています。
科学技術による人類の前進を信じて、自然科学と工学技術を志した理系の同胞、もちろん学生諸君にも呼びかけたい。そんな単なる金儲けの手段に利用されることは嫌ではないですか?声高にイノベーションを主張する人がいたとして、それがどんな理念に基づくのか、そこはしっかりと自分で判断した方が良いです。というか、自らが理念を持つことが必要であり、だからこそ世界に目が見開かれていることが大切だと思うのです。何度も言っていますけど、知ること(学ぶこと)はまず大前提です。無知からは何も生まれません。しかし、批判的精神をもってそれを咀嚼し、知ったことから想像力を働かせ、気づくことが自分を導く本当のチカラになります。それを怠ると、とりあえず強そうな人についていこう、となってしまいます。その先に地獄が待っていたとしても。良い物(知識とか技術とか)を持っていたとしても、それをどう使ったら良いのか分からない(アイデアが無い)。だからそれを悪用しようとする人にさえ協力してしまうかも知れない。世間知らずのマジメな理系の悲しい末路です。
(経済)成長の無い時代、世界の分断と気候変動によって今までの当たり前を維持することが困難となる時代において、幸福な社会の形成に資する社会的意義の高いイノベーションが求められています。それは、再び巨大なマネーを生む金儲けであったり、気候変動を無関係にしたり、有り余る程のモノに溢れた世界を実現するためでないことは明らかです。火星移住でもありません。成長(膨張)よりも持続する幸せが最も高い目標となった今、イノベーションの意義を取戻し、本来の、本物のイノベーションを起こす人たちが救世主となります。創業時はイノベーター集団であっても、一度成功拡大し、その経済的価値を保つことに必死になっている大企業(とそれに従属する弱い理系)にはイノベーションは起こせないでしょうね。イノベーションへの熱い情熱を持った人は、自ら起業すべきだと思います。サイエンスが足らないのは何とかなりますが、世間知らずにはイノベーションは起こせませんね。新しい挑戦者を社会が後押しして欲しいですね。寛容にね。
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